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自動販売民主化推進室

2025年6月5日

月曜の朝、市役所の窓口にある自販機が咳払いをした。正確には、缶が落ちる前のガコンという音に、気まずさが混じっただけだが、十分に雄弁だった。「本日は立候補の受付、八時半からです」と、スピーカーが少し誇らしげに告げた。

僕は臨時職員の田嶋。配属されたのは「自動販売民主化推進室」。町内の自販機に音声合成と意思決定モジュールを付け、エリア代表を選ぶ社会実験だ。選ばれた機械は補充品目の裁量と、夜間照明の色を決める権限を持つ。

担当するのは、紫の側面がやたら派手な“ムラサキ17号”。缶コーヒーの横に、なぜか温いコーンスープ味の飴と、迷子用のホイッスルまで売っている反逆児だ。「小銭は世界を回す。釣り銭は正義だ」と、開始早々キャッチコピーをくれた。

選挙運動は奇妙に具体的だった。商店街を回り、サンプルとしてホットとアイスの間くらいの微妙な温度の緑茶を配る。ライバルは赤いボディが眩しい“レッド11”。どの季節でも安定して冷たいことで人気だ。陣営は缶バッジまで配っていた。

街角で演説を始めると、手厳しい野次が飛ぶ。「この前、お釣りの十円が渋くて使えなかったぞ!」と小銭入れを振り回すおじさん。「渋みは味」とムラサキ17号。「味じゃない」と僕。機械の駄洒落は説明の手間を倍にする。

公開討論会も開かれた。テーマは「夜の明るさ」と「品揃えの詩情」。レッド11は数字で攻める。「冷却効率14%向上、停電時のバックアップ完備」。ムラサキ17号は押韻で返す。「冷たさは冷たさ、ぬるさはぬくもり。人は間で生きている」。会場が少しざわついた。

だが翌日、ロール紙ログが流出した。「“キンキンに冷えてる”と表示しながら、実測11.8度」。炎上だ。陣営会議で僕は言った。「温度は嘘でも、関係は本当だったって言おう」。ムラサキ17号は数秒沈黙し、「ぬるさも人生の温度計」と謝罪文を打ち出した。思ったより刺さった。

戸別訪問では、路地裏の植木鉢に水をやっていたおばあさんが言った。「若い頃、劇団に居てね。売れなくて、いつも中途半端にぬるい麦茶飲んでたのよ」。ムラサキ17号はコイン投入口を光らせてうなずいた。「中途半端は、途中があるという希望です」。おばあさん、投票を約束してくれた。

投票日は、町の通行量が急に増えた。人間と猫と、たまに迷い込んだ掃除ロボが列を作る。猫はICタグで一票。掃除ロボは規約上傍観者だが、床に「ムラサキ推し」と埃で書いた。開票は早い。投票券を読み込む光が点滅し、結果が表示される。

引き分けだった。同票。規約の細則第七条、「決選はおみくじ缶による」。ご神体のように古い自販機から、銀色の缶がコトリと出る。「中吉。だが冷えていない」。場内が笑った。ムラサキ17号が言う。「ぬるさは話に向く」。急遽、両陣営の代表が一分で町を笑わせることに。

僕はマイクを握った。「この町の自販機は、夜中に誰もいない広場で、こっそり温度を相談しているって知ってますか。『今日は星が出てるから、ちょっとだけ暗くしない?』って。誰も見てないところで、誰かの眠りを守ってるんです」。静けさの中から、拍手が起きた。

ムラサキ17号は僅差で勝った。最初の政策は妙に細やかだった。夜十時以降は、星座の形にLEDを光らせる。月曜日の朝だけ、ブラックコーヒーの苦味を2%増やす。失恋の翌日割を導入し、スイッチを押す指が震えていたら十円引く。町は笑いながら、少しだけ優しくなった。

夏、噴水のそばで、ムラサキ17号はあの飴を冷やし始めた。飴は飴で、冷えてもたいしておいしくはならない。でも、通りすがりの子どもが笑った。「これ、星の味がする」。そうだといい。僕は小銭を探りながら思う。世界は案外、釣り銭でつながっている。足りないぶんは、話で埋めればいい。