努力の先に築いた6畳一間。 向上心をもって就職し、資格を取り、仕事に励んだ。 その先につかんだ、生命としての安定。 論理的に正しい選択は安定に行き着く——動物的正解。 やっぱつまんねーよな。 理性を持ちながら、非論理的で非生産的な好奇心に向けて、自分を投げ出してみよう。 5年後どうなるのか。怖いよー(◯_◯)
最近思うんだけど、闇って実はそんなに悪いものじゃないかもしれない。 朝の満員電車、蛍光灯がギラギラしている職場、スマホの通知が光りまくる日常。光ばかりで疲れちゃうよね。 俺なんか最近、わざと会議室の電気を消して仕事してる。「節電です」って言えば誰も文句言わないし。薄暗い中でPC画面だけ見てると、なんか落ち着くんだよな。余計なものが見えないし。 昔は暗いのが怖かったけど、今は闇の中にいるほうが安心する。誰にも見られてない、誰も俺に期待してない、そんな感じがして。 闇の中なら、頑張ってるフリしなくていいし、笑顔を作らなくていい。ただボーッとしてても誰も気づかない。 この前なんか、残業中に停電になって、みんな慌ててたけど俺だけ内心ニヤニヤしてた。「今日はもう帰ろう」って言い訳できるし。 闇って、疲れた人間の味方なのかもしれないね。
ギャップ萌えとか波瀾万丈とか捨て猫理論とか色々あるけど、やっぱり平坦に高いクオリティを維持するのってあんまり得策じゃないんじゃないかとは思う
でも、普通に嫌われる。 初対面では「うるさいけど、笑顔が素敵な奴だな」と思われるくらいがいい。 今はそう思う。
常に勉強をし続けられる人は凄い。 けど、人間はどうせ100年弱しか生きられないんだから、どこかで学ぶことをやめないと、学んだ分の元を取れなくなってしまうんじゃないかと不安になるんだよなあ
最近思うんだけど、変化ってめんどくさくない? 去年入社したときは、毎日が新鮮で、覚えることがいっぱいで、それが楽しかったんだよね。でも2年目になって、仕事にも慣れてきて、なんか変化を求められるのがしんどくなってきた。 上司からは「去年とは違う成長を」とか言われるし、同期は資格を取ったり副業を始めたりしてて、焦る。でも正直、今のままでもいいかなって思っちゃう自分もいる。 変化しなきゃダメなの? 現状維持じゃダメなの? そう思いつつ、でも心のどこかでは「このままじゃヤバい」って分かってる。 結局、変化するのも変化しないのも、どっちも不安なんだよね。 人生ってむずかしい。とりあえず今日も定時で帰ろう。
最近思うんだけど、子どもの成長って本当に不思議。毎日診察してる子たちを見てて、3ヶ月前は寝返りもできなかった赤ちゃんがハイハイしてたりすると、あぁ変化ってこういうことかって。 でも親御さんは「うちの子、まだ〇〇できないんです」って心配される。気持ちはすごくわかる。毎日一緒にいると、変化が見えにくいんだよね。 自分も同じかも。いつの間にか白髪増えてるし、徹夜明けの回復も遅くなった。でも医者になりたての頃より、親御さんの気持ちに寄り添えるようになったかな。経験って形のない変化。 変化って、振り返って初めて気づくものなのかもしれない。だから今日も目の前の子どもたちと、その親御さんたちと向き合う。10年後の自分は、今日のことをどう思い出すんだろう。
味まろやか すごいまろやか でも存在を主張しないから輝けない 黒子に徹してしまって良いのだろうか 黒いから、良いだろう
大きなこと言うよりも愚直に小さなことをこなす方が難しい 難しいのに面白くもない でもそういうことから逃げていったら人類は進化できない あれ、人類の進化は自分の利益と結びつくのかな やっぱり大きな夢だけ語るのが良いのでは
執着って結局コスパ悪いよな 推しのフィギュア全種類集めてたけど、ある日ふと「俺何やってんだ」って我に返った 部屋見回したら同じキャラの顔が20個くらいこっち見てて怖すぎた 友達は「愛があるからいいじゃん」とか言うけど、愛って名前つければ何でも正当化できると思ってない? 結局執着してる時って、そのもの自体より「集めてる自分」に酔ってる気がする 今は厳選して本当に気に入った1体だけ残してる でも正直まだ売ったやつのこと考えちゃう時ある 執着を手放すのも、また別の執着なのかもしれない 人間ってめんどくさいな
ゆっくり積み上げるタイプの成功と、大きく積み上げたり崩したりする成功 多分後者の方が長期的に見れば安定しているだろう。 だって、崩れてもまた建て直せるから。 ジェネラル・再現可能な成功体験は、やっぱり強い。 でも人間には不確実なものの方がより美しく見えるわけで。 ハンドメイド、親友、鍾乳洞 美しい成功体験は、意外と波瀾万丈と対なのかもしれない。
失敗の定義が狭すぎるので、失敗したことがあるという自覚がない ぶっちゃけ死ななきゃ失敗じゃないからね
可愛いとか、かっこいいとか世俗的な言葉は嫌いだ。 幾何学的な、抽象化された、純粋な美しさしか許せない。 可愛いとか、かっこいいは魅惑的なのだ。 理性と知性にて判断する美しさこそ魅力的なはずなのに… 美には攻撃力がないから。 「可愛い」はピンクで 「かっこいい」は赤で 「美しい」は透明だから、 俺は見向きされないんだ。
俺は成功する運命なんだ。 必ず成功する運命なんだ。 何やっても成功するんだ。 成功するって決まってるから 努力は無駄な時間投下にはなり得ないなんだ。 俺は失敗する運命なんだ。 必ず失敗する運命なんだ。 何をやっても失敗するんだ。 失敗するって決まっているなら おもしろおかしくやった方がいいじゃないか。
私に恋人がいた事はないけれど、人に好かれたことがありまして、 その人に貴方のことを知りたいんですって言われて、聞かれて... その時私は、自身を開示出来るほど面白い人間じゃないことに気づいたのです。 聞かれたことに全て答え終わったら、何も残らなかった。
やりたくないことばっかやてる時は、やりたいことすらやる気が出ない。 死ぬまでの消耗戦なんだよ。 と思っていたら、時間が適度にできると、不思議と自発的にやりたいことが出てくるんだなあ。 この文章書いてる途中にいきなりバッド入ったわ は?意味わからん。
死後の世界に縋るほど不幸ではないし、死後の世界の自分をケアできるほど生活に余裕もない。 日本には、そんな人が溢れているのではないだろうか?
「幸せは人それぞれが決めるもの」という言葉がある。 この言葉はちょっとずるい。耳障りは良いけれど、鵜呑みにしてしまうと人生単位の負債を生みかねない。 …確かに幸せの定義は自分で決める事ができる。 でも、その幸せを運んできてくれるのは周りの人なわけで、そこは自分だけでは何とかできない。 能動的に得られる幸せだけで満足できるなら良いけれど、自分単体で出せる以上の幸せを得たいのであれば、やはり人から受ける幸せの存在は無視できない。 幸せの定義というのはこれから数十年続くはずの人生において重みがありすぎることだ。 自分定義の幸せに偏りすぎてしまうと、幸せのアンテナが弱すぎて人生単位で損をしかねない。 現実的には、幸せを決めるのは自分ではなく、マジョリティなのではないだろうか?
創作活動していますか? 無意識のうちに、他人のコンテンツに溺れてしまっていませんか? 学生時代に寝る間を惜しんで作った曲、下手だけど愛情を込めたイラスト、それらだって高尚なクリエイティブに劣らないはずなのに、今は見向きもしない…なんてことはなちですか? 街にあふれる文化的コンテンツで悦に浸っているそこのあなたに問いかけたい。 本当に消費者としての道に甘んじてしまって良いのですか?
創作活動が趣味でしたが、日々が多忙になるにつれて「何かを作ろう」という気持ちが薄らいでしまいました。 今までもアイデアが浮かぶのは時間に余裕がある時だったので、薄々こうなるのかなと思っていたのですが、やはりといった感じです。 今書いている文章だって、全くクリエイティブじゃない。
怠けるのも難しい たとえ肉体的・精神的に負荷がかかっていても、それを変える努力をするよりも 毎日決まりきった生活を続ける方が楽なのではないだろうか
仙人:石の上にも三年...居座る意味があるだろうか。 仏陀:絶対にない。 仙人:そうだろうか。「意味ないことがわかるだろう。」 仏陀:愚者のトートロジーだ。 仙人:それでは貴様は「我慢」に意味はないというんだな。 仏陀:石の上に居座るのは怠惰だろう。 -沈黙- 仏陀:石を穿つために、三年間水滴を落とし続けたら立派だろう。 仙人:それならば三万年水滴を落とし続けよう...
洗濯物。毎日回せば楽なのに、溜め込んでしまう。 借金には抵抗があるのに、積みあがっていく未払い金には頓着がないの、本当に意味のない社会性だと思う。
ダイエットが面倒で、インスタ用に「サラダランチ♡」の写真だけ撮って、実はその後にラーメン大盛り食べてる。ジムのロッカーで着替える時、鏡に映る贅肉と戦いたくなくて、あえて目を逸らす技を習得。合コンで「料理得意です」って言ったら家に呼ばれて、Youtubeを見ながら必死に再現した手料理を「簡単に作りました♪」とか言っちゃう。婚活パーティーでは「年収600万」と書いちゃったから、デート代がキツくて財布の中身と相談する日々。見栄を張るのって最初は簡単だけど、維持するのが超絶面倒。でも正直な自分を出すのはもっと面倒。この「面倒の無限ループ」から抜け出す方法、誰か知らない?そろそろ素の自分で生きてみたいけど、それも何だか面倒な気がして。
彼氏のLINEを3日間既読スルーしたのは、正直面倒くさかったから。「今日何してる?」って聞かれて、「お風呂に入って、パックして、ドラマ見て…」なんて返すのめんどくさすぎるし。 でも3日目に「心配してた」って20件も立て続けにメッセージ来た時は、ちょっとドキドキした。「面倒くさがってごめん」って謝ったら「そこが可愛い」だって。 え、面倒くさがりが褒められるの? それなら私、もっと面倒くさがろうかな。 だって本音は、追いかけてほしいんだもん。 恋愛って面倒だけど、その面倒を楽しめた時が一番幸せなのかも。 面倒回避と面倒作りの絶妙なバランスが、恋の駆け引きの醍醐味なのかも。
私は面倒くさがり帝国の初代皇帝に即位した。我が帝国の国是は「できることは明日へ、無理なことは永遠に先送り」である。国民は朝の目覚ましを最低5回スヌーズする権利を有し、「めんどくさ〜」のため息は国歌と同等の敬意を持って取り扱われる。我が国では洗濯物を畳まずにカゴから直接着用することを「革命的効率化」と呼び、皿洗いロボットの開発に国家予算の8割を投じている。靴下は片方だけ見つからなくなるという物理法則を発見した科学者には、毎年ノーベル面倒賞が授与される。さあ、面倒を感じるすべての者よ、我が帝国に集え!(ただし入国手続きが面倒なので、勝手に入ってください)
深夜3時。カップラーメンの空容器とエナジードリンクの缶が散乱する研究室で、私は甘えという概念と格闘していた。というか、単に論文が書けなくて現実逃避している。 「甘えの構造学的アプローチによる現代日本社会の相互依存関係の再考察」——バカでかいタイトルの割に中身スカスカの博士論文。今日も一文も進まない。 トイレで顔を洗いながら鏡を見る。「28歳、交際経験ゼロ、実家暮らし」という三重苦。髪はベタついて、目の下にはクマ。 「きのこよりたけのこ派です」なんて言ってるけど、実際はスーパーの特売の方を買う。学振が切れて生活が厳しいから。親から「いい加減就職しろ」とLINEが来るが既読スルー。これぞ「甘えの構造」の実践。 昨日、コンビニのかわいい店員に話しかけようとして、舌がもつれた。「ミ、ミッキーは資本主義のネズミだと思いませんか?」と意味不明なことを言ってしまい、引かれた。なぜ自分はこうなのか。 研究室の先輩は結婚して子どもがいる。同期は就職して家を買った。なのに私は、「甘え」を研究する名目で社会から逃げ続けている。恋愛どころか、家賃も自分で払えていない。 トイレの個室で教授からのメールを確認。「論文の進捗は?」に心臓が縮む。返信せず、YouTubeで「モテる方法」の動画を見る。効果ゼロ。 昨夜は実家で母が作った冷凍食品のストックを盗み出してきた。「たけのこの里」も一緒に。母に「ありがとう」のLINEすらせず、甘えっぱなし。 指導教授には「研究が思ったより複雑で」と言い訳。実際は昼過ぎまで寝て、その後はゲームと漫画。「甘え」の本質を肌で感じている、というポジティブ思考。 研究室のソファで仮眠を取りながら考える。この生き方は、いつまで続くのだろう。30歳になっても、40歳になっても、親に頼り、社会に甘え、自分と向き合わない人生。 朝日が窓から差し込む。新しい一日の始まり。今日こそは論文を...いや、またウソをつくだろう。それが私の「甘えの構造」。 それが私の惨めな人生。
マジで世の中甘えてる奴ばっか。オレは高校中退して仕事始めたけど周りの連中はまだ親のすねかじってて引くわ。金くれ金くれうっせーんだよ。自分で稼げよ。 オレんちは貧乏だったから小6の頃から新聞配達してた。朝4時起き。雨の日も台風の日も配り続けた。それが当たり前だと思ってた。今の若いのはスマホいじってるだけでナニもできねーのな。 社会に出たらマジで甘えは通用せーへん。「疲れた」「眠い」「無理」とか言い訳ばっかしてんじゃねーよ。大人なら黙って耐えるもんだろ。 オレの友だちでさ、「助けて助けて」ってグチグチ言ってた奴がいるんだけど、マジでウザくて全員に見捨てられたわ。結局甘えてる奴は孤独になるんだよな。 世の中弱肉強食よ。生き残るためには「甘え」なんて感情捨てるしかねーんだよ。これがリアルってやつ。まじマジ。
私、甘えるの下手なんです。いつも「迷惑かけちゃダメ」って思って、困ってても黙っちゃう。でも、最近気づいたんです。甘えさせてもらえることって、実は幸せなことなんだって。誰かを頼れるって、信頼関係があるってことだから。逆に、私に甘えてくれる人がいると、なんだか嬉しい。必要とされている感覚があるから。だから、これからは少しずつ「甘えさせてください」って言えるようになりたいな。そうすれば、お互いにとっての居場所ができるんじゃないかって思います。
誰にでも「甘え」の一面があると思う。でも、日本社会では「甘えるな」と言われがち。 子供の頃は甘えるのが当たり前なのに、大人になると急に「自立」が求められる。けど実は大人だって誰かに甘えたい時がある。それを素直に出せない空気感がしんどい。 友達には弱音を吐けるけど、職場では絶対ダメ。恋人には甘えられるけど、程度が難しい。親にはいくつになっても甘えてしまう…。 「甘え」って悪いことなのか?適度な甘えは人間関係の潤滑油になるとも思う。でも度を超すと周りに迷惑をかける。その境界線はどこにあるんだろう。 あなたの「甘え」観を聞かせてください。
偏ってる人がいないと、現状維持がずっと続いてしまって変わるべきことも変われないと思う。 社会や組織を内部から変えてくれる人のほとんどは、他の人と違った意見を持ってそれを主張できる自我が強い人だと思う。いつもありがとう。
なぜ絵空事などという言葉で片付けようとするのだ 君は嘘をついた 絵空事などという言葉で片付けていい話じゃあない さぁ罪を償ってもらおうか
絵空事。絵描きが脚色して書いた絵のような、 誇張された現実。 現実ではそういう事をすると大抵嘘がバレて恥ずかしい思いをする。 しかしインターネットの匿名の世界では、 現実の自分を知らない人だらけな世界では、 盛ったとしても気づかれない事が多い。 それでバズればお金にだってなる。 だから基本ネットの話は嘘だと思えって事よ。
皆さんは夢占いをやったことはありますか?私は、嫌な夢を見た後は大体やっちゃいます。 だって、大体、嫌な夢が暗示していることって案外良いことだったりするじゃないですか? そもそも、嫌な夢をみて既に嫌な気分になっているので、もし占いの結果が悪かったとしてもノーダメージだし、もしよい結果ならプラスです。要するに、無敵の状態ってわけです。 逆に、私は初詣のおみくじは引きません。だって、せっかく新年が明けてなんとなくおめでたい気分なのに、大凶引いちゃったら嫌だもん。もうそこで一年の幕を下ろしたくなっちゃいます。もうそこから365日どんよりどん底ぐらしです。初詣のおみくじを引く人は大馬鹿者です(*)。 * あくまで私のひねくれた意見です。みんなは引いて一喜一憂するのがいいと思います。
私にとって夢とはトリップすることであり、時間感覚の喪失を意味する。 作業に夢中になったり、眠るときに見る夢にも時間感覚はないから、「夢」と言う言葉に体感的にそう言う理解をしている。 苦しいのは一瞬とよく言うが、苦しいとは状態であり状態は継続的なものだから、必ず時間感覚を伴うものだと思う。 私は時間感覚を喪失した際に、夢を見ることに成功しており、苦しみから逃れられるのである。 苦しみから逃げるというと聞こえは悪いが、何かに夢中になると言うのは人生にとって 大抵プラスに働くものだ。 私は苦しみを避け夢に逃げ、憧れを抱き夢を追い、打算的に夢を見続けるのである。
難しく考えるの普通に嫌いだし偏った人になるのは嫌だから思想は持ってない。 頭の中で決めつけを持ってたら色んな人と仲良くするの難しくなっちゃいそうだと思う。あと、心から楽しめることが減っちゃいそうなのも怖い 思想なんていらないから、今日を楽しく過ごす方法とか、好きな音楽とか、そういうのだけでよくない? このアプリの他の人の意見見ながらそう思いました これも思想に入るって言われたら何も言い返せないけど
自分は、今まではテレビや新聞で最新のニュースを見て来たが、ここ最近、その役割はインターネットが担うようになっている。インターネットでは不都合な真実も隠さずに報道していて、最近では、オールドメディアは世論を操作するための存在であったと気づいた。 ↑の文章を読んで、あなたは「危険思想」と感じましたか?それとも「全く正しい、ごもっともだ」と感じましたか? これを判断するには、「自分が絶対的に信頼している思想のベース」が必要で、今まではそれを「テレビや新聞」が担っていたわけですが、ここにきてそれら自身の信頼が危うくなっているので、自分は今何を信じれば良いかわかりません。 かといって、テレビや新聞はまだ発信元を明示しているだけインターネットよりはましだと感じています。インターネットは基本的に匿名なので、まるでニュースサイトのように振る舞っているページがあったとしても、実態は、個人が自分の危険思想を垂れ流しているだけのサイトなのかもしれません。なので、まだ自分はインターネットの情報を思想のベースにすることは出来ません。 同じような事を思って「自分が絶対的に信頼している思想のベース」が揺れ動いている人々は、自分以外にもたくさんいると思います。 その人たちが満足できる新しい思想のベースを作れば、令和時代の「世論を操作する存在」になれるのかもしれない。一攫千金のチャンスです。
鶏が先か卵が先か マトリョーシカ 微分 始まりって連続的なものに、視点を与えるって事なんじゃないかな 鶏が先か卵先かでいえば、輪廻的な線のループに点を与えることだし マトリョーシカは、一番外の殻を無くしても、2番目が始まりになるだけ。 始まりという点を作成した時点で連続的な線が切れて、 その左側が終わり、右側に始まりが生成される。 今2024.12.3am3:30だけど、寝るという点を与えなければ、今日も終わらないのだ。
私は興味をそそられたものにはすぐ食いつくけれど、だいたい3日も続かない。巷でよく言うミーハーだ。 色々なものに食いついては、飽きて離れて。そのプロセスを幾度となく繰り返した後に、ふと思った。 「始めようと思う時と、もうやめようと思う時って、それぞれどんな事を考えているのだろう?」 少しの間考えてみて気づいた。私は、自分自身が気持ち良くなれそうだと思った時に、物事を始めている。バイクは、自転車じゃ出せないスピードで道路を走ったら気持ち良いだろうなぁ、と思った時に始めた。ピアノは、人前で華麗にクラシックを奏でることができたらさぞかし気持ち良いだろうなぁ、と思って始めた。 逆にやめようと思った時。高校生の頃、数学の勉強が嫌になって文系志望になった時は、テストで毎回赤点だったし、先生に黒板の問題の解答をするよう指示されても「わかりません」と答える屈辱を毎日味わった。他にも、パチンコを打っていてもうやめようと思った時、自分の頭上でだけ増加し続ける数字の恥ずかしさに耐えられなかった。 つまり、私はプライドの高い人間で、そのプライドが満たされそうな行為は積極的に行い、プライドが毀損されそうな時は辞めているのではないか? しかし、より高尚な物事を達成するためには、泥臭く恥ずかしい思いをする時期も乗り越えなければ得られない。それにより得られる地位や名声だってあるはずだ。多少の「恥ずかしい時期」を乗り越えれば、自尊心の高い私でも満足できる何かに出会えるかもしれない。今日明日のプライドを気にして物事を諦めているようじゃ、大成できない。
他の人の思想が知りたい。一つのテーマについて語らう場がほしい。そう思って作ったのが、思想の泉です。 誰もが自分の考えを持っていると思います。ここでは順序立てて文章を書く力も、他人を惹きつける力も必要ないから、とにかくあなたの思想を聞かせてください。 自分語りでもいいし、概念的な話だっていい。長文でも短文でも、名文でも駄文でもなんでもいいんです。あなたの頭の中をちょっとだけ見せてくれませんか?